手前味噌ですが、ここはステマだと思わずに前置きを聞いてください。
1年ほど前に、私は自分の大学受験の体験を描いた『妄想娘、東大をめざす』というコミックエッセイを出版した。
それは、「偏差値をここからここまで上げた!」とか、「こんな勉強をすれば誰でも東大に入れる!」とかいう成功談では決してなくて、
受験生の日々にどんな人やものに出会って、どんな物語があって、自分がどんなふうに変わっていったか……というドラマ。
その物語の中に、スナオ先生という、救世主的地理講師が登場する。
地理の授業が全くないという、東大受験をするには絶望的なカリキュラムの高校に通っていた主人公(私です)は、白スーツに赤いバラというファッションのスナオ先生に予備校で出会うことで、運命を開いていくのだ……
大学に入学してからも、帰省したときに何度かスナオ先生に会いに予備校に顔を出したことがある。そのたびに、先生は私のたわいのない旅行の話とか、ころころ変わる将来の夢の話とかを聞いてくれた。
でも、予備校というのはあくまでも受験生のための場所。そこを巣立った人間がいつまでも我が物顔でうろうろしていると、あまり良い空気を撒かないような気がした。だから大学生活に慣れていくうちにいつのまにか、予備校に挨拶に行くこともなくなった。
スナオ先生の連絡先は私の携帯に入っていたけれど、受験生のために全国津々浦々飛び回っている先生の忙しさを考えると、私からそんなに連絡するのはためらわれた。
著書を出した報告に、数年ぶりに連絡したとき、スナオ先生はハイテンションで喜んでくれた。
「すごく良かったよ! 俺、授業でめちゃめちゃ宣伝するからな!」
少し恥ずかしかったけど、先生の屈託のなさが嬉しかったのを忘れない。
スナオ先生と連絡先を交換したころは、まだ携帯メールが中心だったのだけど、ここ数年で、PCメールかSNSで人とやりとりすることがほとんどになり、携帯のアドレスをめっきり使わなくなった。
それで、今年に入ってからSoftbankからauに乗り換えてメールアドレスも変わったのを、スナオ先生に報告するのをすっかり忘れてしまった。電話番号だけは上京してからずっと変えていないままだった。
そんな春の日のこと。事務所で作業していたら、知らない番号から電話がかかってきた。
「ランちゃん? ……だけど」
どこかで聞いたことのある、男の人の声。でも妙になれなれしくて怪しい。名前が聞き取れない。
「すみません、もう一度お名前を」
「スナオだけど!!」
「スナオ先生!?」
その瞬間、得体の知れなかった声が、懐かしい声に変わった。
「お前アドレス変わっただろ!? 音信不通になったから心配したんだよ。いろいろ報告しろよ!」
失礼なことをしてしまったというのに、びっくりしたのと、なんだか嬉しいのと、スナオ先生が全然変わっていないのがおもしろくて、謝ったり言い訳したりしながらつい笑ってしまった。
先生は特に用はなかったみたいで、卒業したこと、結婚したこと、新しい連絡先を伝えて、電話を切った。
本音を言えば、恩師という存在には、中途半端な状態では近況報告をしたくないのだ。
大学院を卒業して、結婚するという大きな節目を迎えたものの、出産を控えていて、これからの仕事の予定を立てている途中だった私。
初めての本を出すという夢が叶ったというタイミングで一度連絡してからは、何か次の目標を達成するまで、連絡しにくかった。
でも、スナオ先生との電話を切って、受験生に戻ったような気分に揺られながら、ふと思った。
中途半端な状態をともに過ごす存在が、恩師ってものなのかもしれない。
思えばいつでもそうだったよな。目標だけは高いけど成績は全然上がらないし、受験太りで着たい服も似合わない、そんな私と、毎週毎週話をしてくれて、受験が終わるまでポジティブなことしか言わなかったのが先生だった。
中途半端な状態じゃ会えないなんて、いつのまに決めてしまってたんだろうなぁ。
恩師からの突然の謎の電話は、人間なんていつでも中途半端なんだと、そしてその中途半端な時期をともにしてくれる人がいるうちは素直にならなきゃということを、思い出させてくれたみたいだった。
夏が来る。
初めての夏フェスよりも、初めての夏期講習よりも、初めてのひとり旅よりも、壮大な初めてづくしの夏が来そう。
高校に入ったときのように、3年かけてがんばるみたいな気持ちを、もう一度奮い立たせている初夏。
大石蘭●1990年生まれ。東京大学教養学部卒、東京大学大学院修了。雑誌やWebなどで、同世代女子の思想を表現するイラストやエッセイを執筆。著書に、自身の東大受験を描いたコミックエッセイ『妄想娘、東大をめざす』(幻冬舎)、共著に『女子校育ちはなおらない』(KADOKAWAメディアファクトリー)。(photo=加藤アラタ)
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