某月某日:今日もまた暗闇の中へ。シアター・イメージフォーラムで、『ジンジャーの朝 さよなら、わたしが愛した世界』を鑑賞。今年もまた、特に何をするわけでもなく、夏が終わってしまったようなので、ひとつ若いムスメがキャッキャしている映画でも観て、キュンキュンしたいなあとか思いまして。いわゆる、“一服の清涼剤”的なアレですね。しかし、そんな目論見は脆くも砕け散り、胸に残ったのは、むしろチクチクとした“痛み”だったりなんかして……。

“GINGER & ROSA”という原題の通り、主人公は赤髪のジンジャー(エル・ファニング)と黒髪のローザ(アリス・イングラート)というふたりの女の子です。同じ病院で生まれた同い年の幼馴染であるふたりは、小さい頃からどこに行くのも何をするのも一緒。17歳になった今も、一緒に学校をサボって男の子たちと遊んでみたり、ちょっとタバコを吸ってみたり、流行りの政治集会に参加してみたりと、旺盛な好奇心の趣くまま、日々を謳歌しています。しかし、そんなジンジャーの無邪気な「世界」は、少しずつ変化してゆくのです。まず、浮気が発覚したパパが家を出ます。いつも優しくて、ジンジャーの良き理解者であり――しかもハンサムなパパ。そして、親友ローザとの、ささいな心のすれ違い。さらには、迫り来る「戦争」の恐怖。

 

傍から見れば、見た目も性格もまったく違うふたりなのに、なぜか親友同士……みたいな話は結構よくある話だし、そんな親友同士の女の子が、ある出来事を境に絶交してしまう……みたいな話も決して珍しくはない(たとえば『潔く柔く』のカンナと朝美とか)。まあ、大概オトコが原因だったりするのですが。しかし、そのオトコが自分の大好きなパパだったとしたら? というのが、この映画の大変エグいところではあるのですが、個人的に興味深いと思ったのは、その時代背景でした。

映画は、1945年8月のヒロシマの記録映像からスタートします。原爆によって廃墟と化したヒロシマの街並み。ジンジャーとローザは、その年に生を受けたのです。そして1962年、彼女たちは17歳になりました。1962年のロンドン。ビートルズがブレイクする直前のイギリス。それはまだ、“ユース・カルチャー”と呼ばれるものが確立する以前の世界なのです(少女たちが聴いているのは、もっぱら“ジャズ”です)。そして何よりも、当時冷戦状況にあったアメリカとソ連の緊張関係が、もっとも極限に達した年――いわゆる“キューバ危機”の年だったりするのです。核戦争勃発の可能性が、現実的にもっとも高まった頃。それが、この映画の舞台となる、1962年の「世界」なのです。

テレビなどを通じて目に入って来る米ソの緊張関係は、ジンジャーにとって、まさしく「世界の終わり」を意味します。フラッシュバックするのは、幼き頃テレビで見たヒロシマの光景。しかし、大人たち――パパとママは、そんなジンジャーの心配をよそに、愛だの恋だの自分のことばかりを得手勝手に考えているのです。世界の終わりは、もうすぐそこに来ているのに。そして、小さい頃からわけ隔てなく何でも語り合って来た親友ローザも……。ひとり思い悩むジンジャーはパニック状態に陥り、やがて堰を切ったように自らの感情を周囲の人々に向けて爆発させるのです。

ジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフの交渉により、キューバに配備されたソ連の核ミサイルは撤去され、核戦争の危機は回避されました。そして、ちょうどそれと時を同じくして、ジンジャーの「世界」も変わるのです。誰かがいなくなるわけではありません。パパ、ママ、ローザ……みんなジンジャーのまわりに変わらず存在しています。しかし、ジンジャーの目に映る「世界」は、劇的に変わってしまいました。そう、本当に変わったのは「世界」ではなく、ジンジャー自身なのかもしれません。あの日あのときを境に、私の少女時代は終わった……そんなクリティカルな瞬間が、この映画にはしっかりと刻み込まれているのです。

 

そこで面白いことに気付きました。2010年に公開され、日本でも話題となったキャリー・マリガン主演の映画『17歳の肖像』。読んで字のごとく、この映画の主人公もまた、17歳の女の子でした。しかも、物語の舞台となるのは、1961年のイギリス、ロンドン郊外。こちらは、いわゆる“ピグマリオン”的な物語というか、優等生の真面目な女の子が、金持ちジェントルマンと知り合い、夢のような世界に足を踏み入れるも、やがてその「世界」自体がガラリと姿を変えてゆく……というプロットで「少女時代の終わり」を描いているのですが、当時の女学生の精神的な情況という意味では、『ジンジャー』と共通しているように思います(ビートルズ以前のイギリスにとって、フランス、パリとは、かくも光輝く“憧れ”の場所だったのですね)。

ちなみに、1993年に日本公開された映画『オルランド』で一躍その名を轟かせた『ジンジャー』の監督、サリー・ポッターは、1949年生まれのイギリス人女性。そして、『17歳の肖像』は、1944年生まれのイギリス人女性ジャーナリスト、リン・バーバ―の自叙伝を映画化したものです。それだけに、この2本の映画には、当時ティーンエイジャーだった彼女たちの率直な“思い”が込められている、と言っても過言ではないでしょう。

 

 

それにしても、なぜ“17歳”なのでしょうか? どうして女の子たちの「世界」が劇的に変化するのは、いつも17歳なのでしょうか? いずれにせよ、映画や小説、少女漫画の世界において、17歳の女の子の話は圧倒的に多い気がします(『あまちゃん』のアキちゃんとユイちゃんが出会ったのって17歳の頃じゃないかな?)。まあ、そのへんの話は是非、かつて17歳の女の子だった御婦人方に、ご教示願いたいところでございます。こちとら、多感な少女たちに感情移入してキュンキュンするつもりが、口ばっかりは達者で聡明だけど、やってることは全然ダメダメなジンジャーのパパがどうにも気になって、なんだか心がザワついてしょうがなかったというか、「ああ、俺はもう告発する側ではなく、弾劾される側の人間なのかもしれない……」と、軽くショックを覚えながら、胸をチクチクと痛ませているような人間なので。まったく、やんなっちゃうわー。

 

 

むぎくら・まさき●LIGHTER/WRITER インタビューとかする人。音楽、映画、文学、その他。基本フットボールの奴隷。