東欧といいますと、日本の方ではまだピンと来ないかもしれません。北欧は何かと雑貨が輸入されてきましたり、欧州のイメージはつきましても。私はこの第二回で書かせて頂きました幼少の頃の重厚なドイツの空気感を忍ばせ、縁がない場所だという気持ちでもいました。そして、複雑に絡み合います歴史の痕。ただ、近年、ふとした契機で日本で知己の編集者をされていた方がチェコで絵本の翻訳作家になったとのことで、訪れることがありました。

 

プラハ・ルズィニェ国際空港(Letiste Prah-Ruzyne)に着きますと、空気が少し変わったような気がします。小さくコンパクトな空港で、この二階のカフェで待ち合わせをするのがいわば定番のようで、頼んだ紅茶も遅くなりました。

なお、この連載の裏テーマは、実は“ビール”でもあります。ビールは世界を示すひとつの指標でもあるような気がするからです。個人的愛好を抜きに。

その彼女と落ち合わせまして、用意してくれていました「Kozel(ヤギのマークが入った有名な黒ビール)」と「Budvar」、「Staropramen」などを何本か、早速、車内で空けることにしました。

 

ちなみに、チェコは「ビール大国」で、一人当たりの消費量は全世界一、ビアホールは街内にも多々ありまして、早くは朝から飲まれている方も多く、また値段も「ミネラルウォーターよりも安い」ので、「水代わり」に皆、飲まれていますが、何せ銘柄が多く、ピルスナー、地ビール、モルト、様々なものがあり過ぎて、下手にビアホールに入りますと、何が何だか理解らなかったりします。あと、ちなみに、こちらの瓶には10%とか書いていますが、これはバリング度、発酵前の麦汁の糖分濃度を表すものです。基本的に、アルコール度数は4-5%です。その後、Zapiekanki(ピザ風スナック)をつまみに話をしまして、ホテルに荷物を置いて、Stare Mesto(旧市街)を歩きました。

Celetnaを歩いていると、美麗な衣装に身を纏った嬢が今宵の人間劇のチラシを配っておりました。Staromestske nam.で知り合いと再び落ち合わせまして、プラハ城近くのHradcanyへ。Vepro,Knedlo,Zelo(ローストポーク、クネドリーキ、ザワークラフトの甘煮)で、乾杯。現地の方々とも交流を保てたのですが、各々英語は問題なく、細かいアレンジメントは彼女がチェコ語、スロバキア語から英語または、日本語に「翻訳」してくれるので、比較的スムースに話が進みました。日本の寿司や武士、アニメはいいね、とやはりここでも言われましたが、不思議なものです。

 

チェコに関しては少しだけ歴史のことも入れておかないといけないでしょう。

たとえば、こういう話も接線としまして。1947年に、フランスの著名なシャンソン歌手のエディット・ピアフがアメリカでライブを開きましたとき、観客はお洒落で可愛いパリジェンヌが軽やかに「セ・シ・ボン」みたいなものを歌う、と信じて疑わなかったと言います。しかし、実際は、黒い衣装に身を固めたピアフが「恋のために、死んだ女性の曲です。」と言って、例の情念深い歌唱を示した時に、引きつったような観客たちの笑いがそれを受容しました。第二次世界大戦後のアメリカにおけるポピュラー・ミュージックの「内実」とは、単純に言えば「ケ・セラセラ・ソング」ばかりに溢れていた証左でもあるのでしょう。

 

 

現代のようにヴァーチャルで、総てが繋がっていましても、訪れます新興国では「上昇」をモティーフにしたポップ・ソングが闊歩し、同時に、好況な状況下では、根の下でパンクや「反-」を体現した唄が現前します。言わずもがな、精緻には「歴史は過ぎゆきまして」から、「当事者ではない誰か」により生成されます。

チェコとは、一際戦禍の歴史が重い場所であり、また現在でも引き摺っています。しかし、実際に訪れますと、考えは何かと変わりました。モニュメントや記念碑化しました「時点」であらゆるものは「記憶の中」にではなく、「記録の中」に還るからです。「記録」-それはとても味気ない二次元の「含み」です。加え、なにより、とても魅惑的な代物です。

そして、私や、あなたという、その「含み」の中で記憶を蒸発させまして、論争をする訳ですが、一次証拠、二次記憶とかの差異で大概「齟齬」が生まれます。

「初めから、あるものがあって」、それを護るため「だけ」の瀬とはありません。負なり正なり。ちなみに、私は「答えを出す」ことが仕事ではありませんし、答えを出さないままで、生きていくのだと思います。

 

プラハで印象的だったことに、人形劇を観た、ことが挙げられます。
チェコで、マリオネット、人形劇が盛んなのは歴史と連関しています。
紀元前からこの地に住居を構えていたケルト人の土俗信仰にまで遡るとも言われていまして、宗教的儀式の一環でもあったみたいです。1620年のビーラー・ホラの戦いにて、チェコのプロテストタント貴族らがカトリック擁護のローマ帝国に敗れて以来、チェコはハプスブルグ家の傘下に入り、この時代に様々な文化流入の中、外国演劇をパスティーシュした人形劇が根付くことになります。
18世紀の終わりにて、チェコ人による独自の人形劇が形成され始め、それはハプスブルグ家のドイツ語強制下で、チェコ語を「純粋に」用いることができるのが人形劇くらいしかなかったというのもありました。なので、チェコ人にとって人形劇というのは、民族文化でもある訳です。
やはり、遠い国ではありますが、街並や人形劇を観ていますと、どうにも親近感が湧き、チェコ、プラハは好きな場所のひとつでもあります。
きっと、いまだに世界は広くて複雑なのでしょうが、その場で感じますことはいつも、文化や生活を愛で、生き、多くの先人の歴史の下で想いを携えて、生きてゆく人たちの強さや笑顔です。自分用のお土産で人形を買いましたが、糸のほつれでなかなか難渋しましたまま、放置しましたまま、今に至りますのも、その糸のほつれとは、私の不器用さ、未熟さと、まだ、そんなに簡単に何でもできることはない、そういうことなのだと思っています。

 

 
まつうら・さとる●1979年生、はやくも来春に向けてまたもや、何かと環境が変化しそうなのですが、サンチュでハムなどのみならず、野菜を挟み、サルサ・ソースをかけて、暑さを乗り切っていた気がします。「この連載をひそかに、いつも楽しみにしてるよ」、と恩師に言われたときは冷や汗をかきました。