どの花も実を結ぼうとする
どの朝も夕暮れになろうとする
変転と時の流れの他に
永遠なるものはこの世にはない
―ヘルマン・ヘッセ(詩人)
建築家アントニオ・ガウディのスペインのサグラダ・ファミリアは、知っている方も多いと思います。1882年に着工され、いまだ建築途中で、2026年に完成(予定)といいます巨大な教会。その、未完成のサグラダ・ファミリアを初めて目の前にし、中に入り、工事中の音を耳にしながらも10代の私は、建設が「完結しないこと」になぜかとても安心したのを想い出せます。映画や音楽、生活もそうですが、始まれば、終わりに向かってゆきますのは必然的なものの、正確にゼロというのはなく、今、この瞬間が1でもなく、0.0000000….1の過去をずっと生き続けているとしましたら、旅もその前準備をしだしたときに既に、終わりが見えているようで、目的は過程に内包されるのかもしれません。その、大学のころに、最初に訪れましたスペインのバルセロナはとても賑やかで、街の広場には昼間からバンドネオンが演奏を奏で、日本でも増えてきましたバルではビールが開けられていました。そして、色んな人たちによくわからない雑貨などを薦められながら、“シエスタ”と呼ばれます昼休みの長さのあいだ、一日のリズムを保ち、ゆっくりされる人たちを見ては、日本の余裕のなさや忙しなさを少し考えもしました。もちろん、「いい加減」にやっていて世の中は回りませんから、「良い加減」の民族性、風土もあるのでしょうし、当時の私は大学という自由な場所にいささかの倦怠と、戸惑いを持ってもいましたから、より目映く反射したのかもしれません。リチャード・ブローティガンという作家の「コーヒー」という短編を想い返しも致しました。今は体質的にも、コーヒーを飲まなくなったのですが、その短編に、こういう箇所があります。
“春になると青年の心は恋を思う、という。もし、その上に時間が余ったら、おそらくコーヒーを一杯飲みたいと思う余裕も、もてるだろうか。”
「コーヒーを一杯、飲みたい」と思う余裕は、後年に再度、スペインを訪れたときに生まれたような気もするのですが、そのときの私にはコーヒーのような苦味ではなく、バルでのソーセージとスペイン・ビールがとても合いました。今では、日本でも世界中のビールを楽しめるようになりましたが、機内含めまして、現地でその国のビールを飲むときに、買った服が馴染んでゆくように、ようやく現地に自分が溶け込んでゆく、そんな感覚があります。フランスの詩人、画家のアンリ・ミショーの言葉に沿いましたら、倦怠や疲労は最高の興奮剤で、時差ボケに特に悩まされますヨーロッパでは、体は疲れていながらも、頭は起きていたり、なかなかリズムが取りづらくもなりますが、そんなとき、パエリア、ポトフ、オリーブオイルをふんだんに使いました現地の料理とともに、ビールがやわらかく、体内時計を変えていってくれます。同時に、大きな風車を見ながらのシエスタや、城壁、教会、オリーブの木などは異国として感じられるもの以外に、身の丈の自分を再確認もできます。
この「街の灯」という連載を始める契機にしましても、言語や風習が違い、どんな国、場所にもしましても、色んな人たちが当たり前に呼吸し、ときに羽目を外し、生活をして、喜怒哀楽を抱えながら生きている、そして、夕方になってきましたら、ぽつぽつと家々の灯がともり始める、窓から母親が子供に晩御飯の声をあげる―そんな何気なくも、とても掛け替えのないひとつひとつの瞬間への心からの敬意も含まれています。「普通」は「普通、ではないこと」、そんな想いと。
仏哲学者の内田樹の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』という本の中におきまして、今のワンランク上の自分を、という世潮に向けての、そんな過負荷で生きる必要はないんじゃないか、という箇所があります。例えば、「皆には、ほとんど無限の可能性がある。でも、可能性は無限じゃない。」ということ。そういうことなのかもしれないです。むろん、ネガティヴな意味ではなく。
いつからか、誰かを蹴落として勝つこと、ワンランク上の生活が、などの風潮がかまびすしくなり、また、既に大きな言葉になっていますが、格差や悲観的な未来などの警告めいたなにかにも道を歩けば、あたります。ただ、誰もが無限の可能性を持っているならば、冒頭に記しましたように、未完成のサグラダ・ファミリアを前に、シエスタをしてしまいましても、きっと大丈夫なのだと想います。そして、それが少しの時差ボケならば、一杯のコーヒーがあればいいのでしょうから。
まつうら・さとる●1979年生、大阪府出身。東アジア圏域をメインにした経済分析をしています。最近はセロリの万能さに驚いています。そのまま齧ってもいいですし、他の野菜にニンニクなどを入れて炒めてもいいですし、夏バテしそうなときには、助かります。また、行く場所、国できゃりーぱみゅぱみゅの「にんじゃりばんばん」がよく流れていたのもあり、脳内をよく巡って困るこのごろです。