思えば、ここYUMECO RECORDSでは過去、くるり、LILLIES AND REMAINS、七尾旅人さんと男性のアーティストばかりを取り上げてきましたが、今回はフィメール・アーティスト、主題として安藤裕子さんについて私なりのアングルで書いてみたいと思います。
私は女系家族に生まれたのもあるせいでしょうか、女性幻想がないながらも、「母性」や女性の持つ特殊な無償的な振る舞いには考えさせられることがありますし、いわずもがな、YUKIさん、CHARAさん、aikoさん、椎名林檎さんなどの歌詞に見え隠れする繊細でときに生物的な手触りには自分のような男性サイドから届かない何かも確実に感じます。
近年、と言いましても、2005年になりますが、『現代思想』という雑誌の9月号が特集で「女はどこにいるのか」というテーマを組んで以降、よりジェンダーや多角的な側面から「女性・性」は問われることになりました。
もちろん、「女はどこにいるのか」とはそのまま捉えるのではなく、基本、「ヒトは女から生まれる」その新しい命を多くの世話をまた女性が担う(担わざるを得ない)、という負荷ケアの面に触れたのみならず、「子どもを育てる者たちが、その選択のために多くのものを制限してしまっている」というケースを含んでいました。また、第二波フェミニズムといいましょうか、公的と私的な抽象的な分断における構造をどう現代的に再解釈してゆくか、そんな含みもあり、いまだに社会制度論的には「男の世界」であることそのものへの対象化の視点がシビアに突き刺さり、それはこの2013年においても宙空に浮いている感覚はあります。
安藤裕子さんは歌手としていきなり華咲いた訳ではなく、女優業を優先されていたものの、2003年の『サリー』というミニ・アルバムでやや遅咲きの26歳という年齢で本格的にデビューします。ちなみに、私が彼女の存在を知りましたのは、2004年の『and do,record.』というセカンド・ミニ・アルバムに入っていました「ドラマチック・レコード」というMVを音楽専門チャンネルで観たときでした。柔らかく不思議な歌声、どこか80年代的なAOR的な浮遊感を持ったその音風景、ホーリーなムード、そこで描かれるリリック。
《君と僕は空の彼方越える スーパースターだ!
二人のカラーゆるり幾度と重ねましょうよ
抱きしめて、抱きしめていたいの》
(「ドラマチック・レコード」)
君と僕、二人でスーパースター。女性サイドから描かれますラブソングの一種のフォルムをなぞるこの「絶対性」に重なる情景。ここに、思い浮かべますのは免疫学者の故・多田富雄さんが言っていましたところの男性は種を拡散する“現象体”で、女性は受け止め、内的に育む“存在体”であるというところに派生している由縁。そして、女性は同性内ハイアラーキーをシビアに泳がないといけない、そんな自覚が内在化されていることも大きく感じます。
「可愛い(KAWAII)」が全世界に通じ、近しいところでは小学低学年の姪を見ましても、十二分に可愛さや美、ファンシーへの欲求が高く、もう十分にセンシティヴな「女性」を感じます。だからともいえるかもしれません、彼女のファースト・フルアルバムに入っています「隣人に光が差すとき」での嫉妬という言葉では片付けられない「隣人」たる自分ではない誰か(同性と置くにはジェンダー論的には現代では難しいので、こう表記します)への切望たる想いと自己内省が激情的に入り混じった熱量には胸打たれました。
《ア ナタニ ナリタイコ レ ダケジャタリナイ》
(「隣人に光が差すとき」)
の歌詞カードの刻印の行間を読みつつ、ライヴでも定番であるダイナミックな「聖者の行進」のラスト2曲の展開で私は彼女に掴まれたと言っても過言でありませんでした。
《開かれた波に呑まれて燃えてゆく言葉を消さないで
歪んだ世界に身を焦がされても
手を離さないでくれたらそれでもいいの
守るべきものは光だけ、と》
(「聖者の行進」)
「ドラマチック・レコード」のような歌と並列、隣人/聖者で引き裂かれているというのは一歩間違えますと、危ういところもあるとも言えますし、ただ、その情念の迸りには鬼気も感じもしました。『Middle Tempo Music』でのCDブックレット内にあります写真はガーリーな彼女の姿がある種のポージングと素に溢れているにも関わらず、焦点は「女性」を迂回するようなもどかしい、やや錯乱した感じを個人的におぼえたのは触れざるを得ないでしょう。
閑話休題。
女性染色体はXXで、男性染色体はXYで、X染色体と比してY染色体はかなり小さいものです。また、昨今の調査ではY染色体自体は早ければ、「500万年後には無くなってしまう」ともいわれています。自分が生存する期間での有無ではなく、X:Y=1098:78―これは1億6,600万年ほど前の世界ではYは1,000以上確保していたのですが、多くの環境変化、影響もあるのでしょう、現実はかろうじて、男性は男性をギリギリ保持しているとも言えるところはあります。
安藤裕子さんは自身でもニックネーム的に「ねえやん」と言われますように、同性からはどこかフォト・ジェニックな印象や共感、ただ、どことなく近寄りがたいムードと、異性からは歌のイメージとは離れて、気さくなキャラクターへのシンパシーが併存しています。
しかし、初期に関しては正当な評価軸が敷かれていたような感じはなかったのも事実です。CMで流れていました「のうぜんかつら(リプライズ)」での特徴的な歌声やシングル「あなたと私にできる事」、「TEXAS」辺りのキャッチーでアンニュイな、分かりやすい“YOU&I”的なラブソングが巷間に受け入れ始め、じわじわと私の周囲でも聴かれる方が増えていったのを憶えています。それも男性ファンがセクシャルな意味でアイデンティファイするというよりも、同性の方が比較的多く、言うには「こういう感じはあなたたち(男性)には分からない、と思うよ。」ともありましたが、それはシングルでリリースされ、ライヴでも圧巻でした2006年の「The Still Steel Down」で自身の中で決定的になった結実がなされます。これは、「聖者の行進」の系譜に沿う曲とも言えますので、「のうぜんかつら(リプライズ)」辺りで入った方々には、やや毀誉褒貶もあるかもしれません。
森の中で熊と向き合う彼女のジャケット、6分を越える壮大さ。ひとつ、メタ的に上がったところから描かれる詩世界。
《誰かが素敵な恋したい、そんなことを呟けば
誰かがほらまた 涙を流す
いつまで泣いて 抱いて抱いてせがむの?》
この際の彼女は明らかに当事者的な、場所には居ないのですが、その超越性を持ったまま、またベタッとした湿度を持たずに、こう歌い上げます。
《降りやむことなどない雨の季節を越え
花びらさえ消えても
いいや、ねえ溢れ出す想いがこの身を焦がしても
雪がいつかそれを冷まして笑うだろう
the still steel down》
直截的なラブソングでも黙示録的な何かでも主/客もない、視られる側の性でもないホーリーさと綱渡りの表現へのアプローチ。それは充実したサード・アルバム『shabon songs』へしっかり結実し、映画の主題歌たる柔和な「海原の月」を手掛けつつ、だからこその吹っ切れたかのような軽快な2008年のシングル「パラレル」で駆け抜けます。
「パラレル」はこの文章のひとつの主題であります彼女が初期から纏っていましたある種のポージングとしての女性を剥がし、一女の子へ加速する分岐になったとも思える曲です。
《悲しみに隙を見せ ぶちのめされちゃうけど
喜びが気がつけば いつも隣にいるよ
君がすき
とてもすき》
(「パラレル」)
「聖者の行進」や「The Still Steel Down」での帯びたスケールの大きい詩的叙情性を半ば放棄しての、フレーズがシンプルな、これまでの中でもBPMが上がり、吹っ切れたかのような速度。ここがどこか仮装化されていました安藤裕子さんという像が自分の中にある「女の子」を取り戻すポイントでは、という気もします。
小沢健二さんの「僕らが旅に出る理由」のユーフォリックなカバーを含めた、タイトルそのものが露わします『chronicle.』にて一旦、それまでの軌跡は纏め上げられ、ガーリー/キュート/スピリチュアリティといった端境への楔を打った印象を受けます。この『chronicle.』時のライヴは大阪のなんばHATCHで観まして、前述の「パラレル」もハイライトだったのですが、バラード、叙情的なときに見せるパフォーマンスに魅せられもしました。
《鐘が鳴って 門を抜けたなら
新しい暮らし迎えるだろう》
(「鐘が鳴って、門を抜けたなら」)
門を抜けて―
正々堂々たる、その後のアルバム・タイトルにもなりました『JAPANESE POP』宣言。誰もが踏み込めるような親密圏に一気に踏み込み、ジャジーなもの、これまで通りポップなもの、静謐なバラッドまで遊びと洗練を増してゆくことになり、相応に艶美に大人の女性のイメージが含まれながらも、可愛らしさ、素の彼女という意味では初期よりも表に出ている気配がありました。
《わかるでしょ? 変われないのよ どうしても
こんな風に強がりなの 優しくないの 笑ってほしい
10年前なら きっと 私でも可愛くなれた?
頑ななくちびるを 今 解いてほしい》
(「マミーオーケストラ」、『JAPANESE POP』所収)
「パラレル」での《すき》からより進んだような描写内での、《頑ななくちびるを解いてほしい》。
その後、カバー・アルバム、そして、東日本大震災、自身の祖母の死、出産など多くの出来事の中で、2012年3月にリリースされました6枚目のオリジナル・フル・アルバムは『勘違い』とネーミングされています。
リード・シングルの「輝かしき日々」は転調の妙と粗暴さが投げ出されたものでした。そこでの彼女は咆哮するように《なんと言われてもいいの 夢など覚まさない すさんだ愛情でいいの あなたを愛したい》、《壊れた愛情でいいの あなたを離さない》― つまり、この文章内で挙げました「ドラマチック・レコード」、「パラレル」、「マミーオーケストラ」の感情がもっとラフに沸点を迎えているとも言える大文字の「あなた」への切実な希求が投げ出されていると言えます。
男性らしく、女性らしく、という言葉があります。
らしく、というのはその本質に近似しながらも、そうはなれないことでありますから、一種の錯妄の加圧でもある訳ですが、今でも「らしく」は頻繁に使われます。先ごろ、UKの知己と話していましたら、日本でも定着してきましたFACEBOOKのいいね!のLIKEは「AS LIKE」、つまり「~のように(似ているかもしれないね)」のサインを示す場合もあるんだよ、という話を聞き、得心もしました。いいね!、LIKEの間には感情の葛藤があるはずでそれがショートカットされる瀬には瞬間には、むしろ長い歳月が要るのかもしれません。
《僕等って誰?
それは出会い別れるものなの
僕等が出会えばウキウキする習わし
痛みって何?
それは忘れ続けるものなの?
心に残した大切なもの》
(「問うてる」)
「僕等」は無論、あなたと私で、二人で居ればウキウキすると歌うすぐ隣にはおそらく、あるときは熊と踊っていた彼女ではなく、しなやかな「あなた」へ向けた眼差しが宿っている、そんな想いもします。その眼差しの上を撥ねるのは、初めて可愛いぬいぐるみを手に入れたときの喜び、可愛い服を着たときの胸の高鳴り、落書き帳にお姫様の絵を書いてキラキラした色んなシールを貼る、そんな原初的な「女の子」としての躍動が巡っているのではないでしょうか。女性は、どこか、自分の中の女の子を問いかけ、その問いに答えるための不思議な時差、私のような男性ではまったく感じ得ない別の時間軸がある気もしています。
最後に、この原稿での基軸は「女性」は女性・性として自身を意識しながら、再びどこかで内在的な「女の子」に還るのでないか、安藤裕子さんもそうではないか、という一種の試論でもあり、そこで“気づき”があればというものです。同時に、私の“勘違い”を異性・同性、安藤裕子さんをよく知っている方が行間、余白に色を付けてくれたら、という願いを僭越ながら込めております。
まつうら・さとる●1979年生まれ、大阪府出身。今年、2013年は音楽のみならず、文化と教養に埋もれたいと思っております。ここYUMECO RECORDSさまにも何かとお世話になりながらCOOKIE SCENEなどをベースに多岐に渡る執筆活動を行なう研究員、にして左岸派。健康志向に拍車が掛かってきました。近況としては、朝型の生活が定着したためでしょうか、夜に早く眠くなってしまうことを周囲に若年寄りと言われるような在り方を再考したいものです。