某月某日:今日もまた暗闇の中へ。2月15日にDVDの発売が決まったようだし、都内のスクリーンで観られるのも、いよいよこれが最後かな? ということで、飯田橋ギンレイホールで、『桐島、部活やめるってよ』を再鑑賞。

年末年始に改めて思ったけれど、2012年はどう考えても『桐島』の年だった。作品としての完成度や評価がどうとか言う前に、「まずは観てみてよ」としか言えない、ちょっと珍しいタイプの映画。去年の8月11日に封切られて以降、口コミの広がりとともに、各地の劇場を転々としながらロングラン、気がつけば年をまたいで公開され続けているという驚き。それ以上に、映画とは、これほどまでに人々の心をざわつかせる力があったのか!という新鮮な驚き。

 

ということで、約4ヶ月ぶりに『桐島』を観てみたわけです。無論、2回目は“神”の視点で。登場人物の相関図はもちろん、ことの次第は全部わかっているわけだからね。しかし、全体を知るが故に、切なさ倍増みたいなシーンも多々あって……やっぱり大号泣というか、屋上のクライマックス・シーンでは、思わず嗚咽している自分に「おい、マジかよ?」って、驚いたりもして。いやいや、“神”だって泣くんです。

 

それにしても。いわゆる“スクール・カースト”(まったく嫌な言葉だね)をリアルに描いた映画として語られることが多い『桐島』だけど、果たしてそうなんだろうか? そんな単純な話なの? むしろ、個人的に思ったのは、自分の記憶なんて、ホント曖昧なもんだよなあ、ということでした。自分の高校生活をぼんやり振り返ってみれば、それなりに平和だったというか、ボンクラなりに楽しくやっていた気がするけれど、果たして本当にそうだったのかな? もっと目を凝らして振り返ってみようよ。他愛ない言葉のやり取りで、誰かをさびしい気分にさせたり、誰かにさびしい気分にさせられたりしたことが無かったなんて言えるのか。いや、口が裂けても言えないよ、そんなこと。いじめられた側は一生覚えているけど、いじめた側はケロッと忘れているみたいな話は、スゲエよくあるわけでさ。“真実”はひとつじゃない。そこに居合わせた人の数だけ、きっと“真実”があるのでしょう。

 

でも、多分それどころじゃなかったんだろうな、とは思うよ。パッと見、平和な学園生活だったとしても、そこには様々な衝突や、自意識をめぐる子供じみたゲームが、いくつもあったことでしょう。だから……きっと、それなりに必死だったんだとは思います。『桐島』に登場する彼/彼女らと同じように。すっかり、忘れていたけどな。

 

そう、“神”の視点で観る『桐島』は、悶絶するくらい雄弁な映画でした。ワンカット、ワンカットから滲み出るものが、初見とはまったく違うというか。彼女の潤んだ瞳の先に映るのは、誰の姿なのか……そういうのが、全部わかってしまうから。なんてたって、俺は“神”だからな。クライマックスの屋上シーンが本当に感動的なことは言うまでもないけれど(あれこそ“映画”だよな!)、そんな“神”の視点でもって、今回印象に残ったのは……たとえば教室の何気ないシーン。ふと窓の外の景色が気になって、ぼんやりと視線を送る宏樹(東出昌大)。それに気づいて、自分も窓の外に視線を送る亜矢(大後寿々花)。あのシーンは、本当に美しかった。四角いフレームの中にピッタリと収まった2人(完全なる2ショットは、あそこだけだったんじゃないかな?)。同じものを見つめている……たったそれだけのことなのに、なぜか胸が一杯になってしまうような、とても美しいシーン。まぶしい、まぶし過ぎるよ。ああ、これが青春ってやつなのか。専門じゃないので、俺にはあまりよくわからないけれど。

 

とまあ、今さら俺が語るまでもなく、ことほど左様に面白い映画(体験)だとは思うので、まだ観てない人は、さっさと観て――そして、気心知れた人たちと、大いに語らったら良いと思います。もちろん、『桐島』の“真実”はひとつではなく、そこに居合わせた人の数だけ“真実”があるのだけれど……そのひとつひとつを、そっと受け止めることができるくらいには、きっとみんな大人になっているはずだから。

 

むぎくら・まさき●LIGHTER/WRITER インタビューとかする人。音楽、映画、文学、その他。基本フットボールの奴隷。