文具店では早くも来年の手帳が売られる今日この頃。私はその光景がちょっと苦手だ、という話を毎年どこかでしている気がする。だってまだふた月も残っている今年をないがしろにしているようで、どうにもやりきれなくなるのだ。手帳に前年の10月ごろからページが設けられていることも解せない。そのおかげで新しい手帳を手にした人々は、年も明けぬうちから新しい手帳を使い始める。古い手帳に真っ白いページを残したまま。そんなことならいっそ正々堂々と10月始まりとして売り出してほしい。
ちなみに私は、年内に新しい手帳を買うけど(早く買わないと好きなデザインがなくなるので……)使い始めるのは年が明けてからにしている。我ながら面倒くさいヤツだと思うけど。でもこの手帳事情には、人間の持つ本音と建て前が如実に表れているとも思う。そしてこれに似た人間の汚さとある種の純粋さを歌詞にし続けているのが、クリープハイプというバンドなのだ。きれいごとにも憧れるし、純愛を信じる気持ちもあるけれど、そうは言っても……。この「……」の部分を尾崎世界観は歌い続けてきたのだろう。そんな彼らの歌詞に注目した展示「クリープハイプのすべ展~歌詞貸して、可視化して~」が、先日まで池袋PARCOにて開催されていた。今月はそこで感じた「可視化」と「文字化」のパラドックスについて書こうかと思います。
■可視化と文字化のパラドックス~『クリープハイプのすべ展』で悩む~
9月21日から10月8日に渡って開催された『クリープハイプのすべ展~歌詞貸して、可視化して~』では、クリープハイプが歌詞を「貸して」クリエイティブチーム「CHOCOLATE」が展示を作成したものだ。まずは「社会の窓」になぞらえ、メンバーのズボンのチャックの中が覗ける仕組みの展示がお出迎え。男子も女子も喜々としてチャックの中を覗きこんでいる光景はなかなかだ。続いては「イノチミジカシコイセヨオトメ」の歌詞を切り取って風俗店の看板風に仕立てたエリア。メンバーがピンサロ嬢に扮した看板もある。つまりこの展示は歌詞そのものが、それにちなんだシチュエーションを再現した空間に配される、というものだったのだ。
そこでふと疑問に思ったのが「可視化」と「文字化」の違いについてだった。確かに耳で聴くだけなら、歌詞は音と同じで目に見えない。でも、歌詞カードを見ればそこには文字として歌詞が書かれている。当然ながら、文字は目で見て読むことができるものだ。これは可視化とは言わないのだろうか、という問題だ。もはや屁理屈を言っているのは百も承知なのだけど。じゃあ可視化する対象を「歌詞」じゃなくて「物語」と考えたらどうか。するとなんとなく、落とし処が見えてきた。
歌詞が文字化されるのが歌詞カードだとしたら、物語が文字化されるのは本、ということになる。確かにそれで物語を目で追うことは可能だ。しかし、物語に描かれる人間の顔や、物語の舞台の様子は想像力に委ねられるため、読み手によって主人公像や舞台象は様々である。けれど、その物語が映画化されたらどうだろう。読み手の想像力に委ねられていた部分が、統一化することになる。もしかしたら、ここまで来た段階が可視化なのかもしれない、ということだ。そう思ったら、歌詞の可視化についてもなんだか腑に落ちた。
物書きは、文字化するのが仕事だ。ライブレポートでは音楽を可視化および体感できるライブを文字化するし、ディスクレビューは目に見えるパッケージから目に見えない音までを文字化する。目に見えるものと見えないものの、真ん中に文字はあるのだ。そう考えたらなんだか少し、愉快である。
クリープハイプオフィシャルサイト:http://www.creephyp.com/
■monthly Rock ‘n’ Roll vol.5 ― FINLANDS「ガールフレンズ」
実を言うと男女問わず、歌声も話声も、高い声が得意ではない。ただ、例外はあって。それがクリープハイプとFINLANDSなのだ。FINLANDSはベーシストとギターヴォーカルの女性2人組ロックバンド。今年の7月に発売されたアルバム『BI』で、私は衝撃を受けた。所狭しと詰まっていたのは、表現することに憑りつかれてしまった女の業。あなたの可愛い女でありたい。それで終れたらどれほど良いだろうか。でもそれだけじゃ嫌なんだ。そんな女性に、ぜひ。
イシハラマイ●会社員兼音楽ライター。「音小屋」卒。鹿野淳氏、柴那典氏に師事。守りたいのはロックンロールとロン毛。2016年11月号より『音楽と人』レビュー陣に加わる。そういえば以前、FINLANDSについてコラムを書きましたhttp://uroros.net/feature/specialcolumn-finlands/。良かったらこちらもチェックしてみてください!